「きれいに食べるね~」
とよく言われる。
食事の後の僕のお皿の上には何も残っていない。
米粒どころかゴマ粒も残っていない。
大学の頃、先輩に
「確かにあきよしの第一印象そんな感じだもんな」
と言われたことがある。
ゴマ粒残さない感じって一体どんな感じだろうか。
きれいに食べるねと言われると、
ちょっとだけ嬉しい気もするが、
それ以上に恥ずかしさがある。
食い意地張ってるみたいだし。
逆に「みんなはきれいじゃないね」って
思ってると思われたくないし。
ホントにそんなこと思ってないよ。
思えば昔から食べ物を残すことは
めったにしなかった。
実家の食卓でも一番最後まで席について、
おかずや小鉢の皿を1つずつきれいにしていった。
文字通り空っぽに。
誰かが食べきれなければ食べてあげるし、
どんな集まりでも食事の最後の場面で
「残りはよろしく」と頼られることが多かった。
別に大食いじゃないけど、食いしん坊。
食べたい人がいるなら喜んで譲るけど、
残って捨てられていくくらいなら私が食べます、
と常に思う。
僕はこれを集合的食い意地と呼んでいる。
僕個人としては、腹7分目に達すればもう満足できる。
しかし目の前で捨てられゆく食べ物があるなら、
10分目まで食べる。
だから例えば居酒屋で、
「このお皿下げてください」
とお客さんが店員さんに渡した皿の中に
ポテトが数本残っていたら気になっちゃう。
サラダは頼むのに、
別のメニューについてきたレタスは食べないんだ、とか。
かき揚げを頼んで、
食べてる途中で発生した大きめの欠片は食べないのか、とか。
だってそれもかき揚げだよ?
別に「食べ物を残すなんてけしからん」
みたいな強迫観念があるわけではない。
でも可食部をあえて食べないのはもったいないなー。
ところで、小食の人からしたら普通の一人前は
量が多いことが結構ある。
そんなときは、
「僕が食べたいから残してね」と言いたい。
外国のことはよく知らないけど、
日本は残さず食べなさいと教わることが多い。
給食とかね。
でも体格も消費エネルギーも違う人たちが
同じ量のご飯を食べる必要はない。
無理して食べると苦しい。
食べるという楽しい行為が台無しになる。
だから「僕が食べたいから」っていう
言い訳を用意してあげると、
残す方も罪悪感なく、
お腹いっぱいの幸福感で食事を終えられる。
ということを今思いついた。
さっきは集合的食い意地とか言い、
今は善人ぶっているけれど、
やっぱり一番にあるのは
「食べたい」ということなんだな、と気付く。
僕は何かに食べ飽きた経験もない。
フランスパンでもそのままずっとかじっていられるし、
毎晩カレーでも不満はない。
そして可食部とみなす範囲が一般的な理解より広い。
皿の上にあれば可食部、みたいな。
咀嚼して消化できる部分は食べたい。
食べることに関して、誰よりも受容的だなと思う。
だからこそ、魚の頭や骨付きチキンの軟骨までなくなっている皿の様子を見られて
ちょっとむずかゆい気持ちになる経験をする。
そんなに褒めないでくれって。
欲望に従っただけなんだ。
昔から僕は三角食べが苦手だが、その理由も今なら自分で理解できる。
例えばご飯とおかずがおいしくて止まらなくて、
そんなときにスープやサラダを食べようなんて思えない。
他の物を入れずにこのおいしい口のまま進みたい。
けどそれも一概には言えなくて、
例えばソーセージとライ麦パンを食べているところにオニオンスープがくると、
相乗効果がある。
今度はパンを浸して食べ、スープの具をすくい、またソーセージがきてパンがくる。
こういう時はお手本のような三角食べだと思う。
あぁ食べ物。
おいしいソーセージを頬張りながらその断面を見つめて、
「なんでこんなに美味いんだ」と馬鹿みたいな問いを浮かべる。
答えなんか求めてない。ただこの瞬間に幸福があるだけ。
誰に向けてというわけではないけど、感謝を抱く。
ピントをソーセージから少し奥にずらした先に誰かの呆れ顔が見える。
奇妙な生き物だな、くらいには思われているのだろうか。
少し変かもしれないという自覚があるだけ自分はマシだと信じている。
自分の食い意地が恐ろしくも、どこか面白い。