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「欲求」についてと、蕎麦にたっぷりつゆをつけたかったっていう逸話

保育園に通っていたときは、アキレスというブランドの光る靴に目を奪われた。
走りながらにピカピカ点滅する靴は最高にクールだと思った。

そう、確か「アキレスプラズマ」。CMを今でもぼんやり思い出せる。

あとはドラゴンボールの孫悟空が着ている山吹色の道着。
あのダボダボしたシワ感と、

腰と足元の絞め感。

戦いの途中で破れていくそれは、憧れ以外の何物でもなかった。

他にもアメリカ製の変な4人対戦ボードゲームをサンタさんにお願いしたり、
サーティーワンの「アイスケーキ」という存在に腰を抜かしたこともあった。

間違いなくその時は欲しくてたまらないものだった。

しかし時間が経つのは早いもので、
そんな欲求たちは思い出となり。

この歳になってサンタクロースに道着をお願いするということもない。
(ハロウィンにはいいかもしれないと少し思う)

もちろん想いの愛着はあるから、
かつての憧れを思い出して微笑ましい気持ちになったりはするけど。

間違いなく過去のある時点から欲求の対象ではなくなっている。

ということは、現在の欲求も同じように未来には輝きを失うのだろうか。

今求めているものの内容は、

昔より少し高尚であるような気はする。

それでも将来の自分にとってはとるに足りないものかもしれない。

そしていつかきっと、一切のものを求める必要はなかったと気付くとしたら、
それは死ぬときだろうか。それとも永遠に気付かないのか。

いや、その前にこの命題が正しいといえるのかさえ分からない。

こんなことを考えていて思い出すのは、ある蕎麦通の逸話(落語?)だ。

「蕎麦とは麺を少しだけつゆにつけて食べるものだ」と言い張った人がいた。
それこそが粋な食べ方であり、麺全体をつゆに浸すなど許されまじ、と。

だがその彼が最期を迎えるとき、

「実はたっぷりつゆに浸して食べてみたかった(´・ω・`)」

と言い残して息を引き取った。

という話。

求める必要などなかったと思えるのは、それまで求め続けていたからかもしれない。
逆説的だけど。

「欲求をなくしたい」

と思うのも1つの欲求。
それに捉われている時点でまだまだだ、とも言えそう。

欲求があるなら素直に認めればいい。
静かに見つめていれば真の正体が見えるなんてこともある。
逆にただ膨張を続けたとしてもそれは自分の身から出たもの。

手に入るなら手に入れればいいし、
手に入らないのなら諦めればいい。

いずれにせよその欲求を持った自分には付き合ってあげるしかない。

それが執着にまで至った場合には、手放した方がよいとは思うけど。

こんな風に欲求を「これは欲求だ」と認識しない純粋さがあるから、
子供は大人にとって憧れの存在なのだろうか。

光る靴をいつでも買える大人こそ、子供にとっての憧れなのに不思議だ。

欲求に打ち克つために滝を浴びるより、
変わらぬ日常をただ生きることが尊いことだと思う。

欲求について頭を悩ませていられる暇があるだけ、恵まれているのだ。
それはつまり娯楽の域に達していると、誤解を恐れて。

僕もその悲痛な娯楽に浸ることは多々ある。
けど欲求が自然に湧いてくるものである以上、
それが絶対的な悪ではないと信じたい。

実際に、より良いものを生み出す原動力にもなっている。

欲求が夢となり、夢が現実となる。

もちろん犯罪や人を悲しませることはダメだけどね。

求める気持ちがあるのなら求めたらいい。手綱はしっかりと握って。

物事の結論というのは、なんだかんだ言ってシンプルだ。

ここまでたらたらと書いてきたけど、

とりあえず今は地元のお気に入りの蕎麦屋で、
名物の大根そばを半分くらいつゆにつけて食べたい。

そして欲を言えば、天ぷら付きで。

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